プロフィール(池田典陽)
<0歳>
・1978年6月4日誕生。自営業を一から営んだ父親、
それを子育てをしながらフォローして手伝っていた母親。5歳年上の姉と4人家族。
<6歳>
・小学校入学。
<12歳>
・ひたすら遊び、野球を楽しんだ。
<13歳>
・やんちゃもしたが、野球に明け暮れる日々を送る。全国大会2回出場。東大阪市長に表彰される。
<16歳>
・スポーツで高校に推薦入学。
しかし肩の影響、実力の現実を自分で感じ、野球を断念する。
それから飲食業、新聞配達、コンサートスタッフ、コンビニの店員等々、バイトに明け暮れる。
<17歳>
・高校2年生。阪神大震災を体験。
ボランティア活動をするとともに人の命や人の繋がり大切さに気づく。
<18歳>
・高校3年生。親父の後を継ぐと思っていたが、美容師になる事を決断。
<19歳>
・高津理美容専門学校に入学。美容師という仕事が憧れの職業、上位に食い込まれている時代に突入。
<20歳>
・美容院「IMAGINE」に入社。美容師の師とも言える深沢と出会う。
その出会いにより、美容師である今の私がいると言っても過言ではない。
<21歳>
・カリスマ美容師ブームが到来。テレビでの活躍等で美容師が社会現象に。
その頃アシスタントだった私はがむしゃらに練習を繰り返す。そして結婚。
<22歳>
・美容師3年目に突入とともに転機が訪れる。長男、健太郎が生まれる。
給料12万円ぐらいで苦しい生活を過ごしたが思いっきり楽しかった。
<24歳>
・なけなしのお金で世界の美容の仕事を見るためにニューヨークに飛び立つ。もちろん家族も連れて行った。
そして誓った。私はこの仕事で社会を明るくしたいと。日本人を馬鹿にするなと。
<27歳>
・「IMAGINE」が梅田・茶屋町に出店する際、店長に抜擢される。
結果を出すことしか頭になかった。家族にも仲間にも支えられ、ひたすら働いた。
不器用な私はとりあえず行動することしかなかった。休みはほとんどなかった。
<28歳>
・ヘンケルジャパン株式会社のメイン講師になり、北海道・東京・名古屋・大阪・広島・福岡等々、日本全国の場所にて美容師向け対象のセミナーを数々させて頂いた。
この頃、月間売上200万円。固定客リピート98%、新規客リピート80%と業界ではありえない数字を叩き出した。でもそんな事は私にとってはどうでもよかった。美容師の価値観、社会的向上、そして皆が笑顔になれる大切さ、生きることの大切さ、私達美容師がどう携われるかと、常に考えていた。
<29歳〜>
・次男、和来誕生。私が仕事だったため、長男が出産に立ち会ってくれた。生まれた直後、長男からすぐに連絡があり「弟が出てきたよ」と。力が何十倍にも湧いてきた。そして美容学校の講演会、小学校の夢授業等々を経験。長男が小学校を入学するとともに家を探しに来たのがこの大阪・都島だった。しかし金銭的に折り合いがつかず、生まれた東大阪の一番端に家を構えた。
また、校長先生からの依頼でPTAの役員になり社会の教育の考え方、人の考え方、教育者として考える時間も増えた。地域では行ける範囲で消防団にも入団した。世代の違う皆が私の仕事のことを理解してくれた。普段ほとんど家にいないことが多い中で、町の人達から、息子たちが池田の息子だと知ってもらった。また、老人ホーム、孤児院等々今でも10数年近くチャリティーカットに行かせていただいています。そこから貰える「ありがとう」という言葉が私の美容師としての原点があるのかもしれません。
<33歳>
・テレビ出演。
<35歳>
・神戸コレクション、東京ランウェイ等々、様々なイベントにも参加。
<36歳>
・決断。夢を見つけた。独立することを。小さい店でもいい。そこからまた始めよう。
笑顔をいっぱい咲かそうと決意。店の名前を「和NAGOMI」とつけた。
「IMAGINE」のスタッフ含め、師である深沢、そこで出会ったお客様、そして友人、そして周りの方々、それと私のわがままを聞き、美容師になると決断した時、反対しながら最後は応援してくれた親父とお袋、そしていつも近くで応援してくれている家族。
そんな方々のおかげでやってこれた。もっと多くの人と出会いたい。もっと多くの笑顔を共有したい。そこにはお客様=家族がこの場所に集まること願いたい。
そして私は美容師である姿を誇りに思い社会の役に立ちたいと心から願う。


お店について